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私と青森

No.2 「核燃裁判」は「米内山訴訟」からのバトンタッチ

2022/09/02

米内山訴訟
原告団の一員だった元社会党代議士の米内山(よないやま)義一郎さん(写真前列中央)は、「むつ小川原開発計画」を「ウソ・ゴマカシの〝虚大開発〟」と、その不確実性を国会で徹底追及したが、昭和51年12月に落選後政界を引退した。

しかし、昭和54年10月「例え1本の糸でも反対運動の火を消さないためにも、次の闘いにつないでいく」と、戦後自分たちが作った社会党を離党し、まず、自民党の諸君でも分かるようにと、「六ヶ所の浜でマグロが641トンとか、ヒラメが423トンも捕れるなどの実績はウソである」、「100億円の漁業補償がデタラメの実績にもとづくものである」ことを訴え、北村元青森県知事はその支出を個人で県へ補てんするように―と、いわゆる「米内山訴訟」を提訴して最高裁まで闘いを続けた。

その中で米内山さんは、「『むつ小川原開発』での加害者は、この開発の生みの親と県が称する経済企画庁、経団連、むつ小川原開発室であったこと」、「その目的は、土地の先行取得であったこと」、さらには、「開発の構想の裏には初めから『原子力のメッカ論』(※)があったこと」等を明らかにすることができたことは、望外の収穫であると、訴訟の準備書面の中で述べている。

※「原子力のメッカ」なることばは、以下に見られる。
・ 青森県が経団連の企画調査機関である㊖日本工業立地センターに1,300万円で委託して作成してもらった「むつ湾小川原湖大規模工業開発 調査報告書」(1969年(昭和44年)3月、p.55)の中には、
「原子力産業のメッカとなり得るべき条件を持っている」、「将来、大規模発電施設、核燃料の濃縮、成型加工、再処理等の一連の原子力産業地帯として十分な敷地の余力がある」と明記されていた。
・ 中曽根首相が1983年12月8日、青森で「下北を日本の原発のメッカにしたら。」(1983.12.9 東奥日報)
・ 2006年3月には、中曽根元首相が「再処理まで考えた(原子力)中枢センターは下北半島だとにらんだし、その通りになった」(2006.3.19 東奥日報)
・北村元知事がが「原船『むつ』によって下北半島が原子力開発のメッカとして狙われた感じがあるな」(1995. 6.23 デーリー東北)

〝与太者〟が来るかもしれない!
農民運動の指導者であった米内山さんは、「むつ小川原開発」が地元で話題になり始めた昭和45年8月号「農業と県民」に、「むつ・小川原湖開発の出発にあたってものを申しておきたい」として
「村1番の娘をもって、オラの娘をもらってけろ(嫁にして欲しい)といってまわる必要はない。いい娘もって、もらってけろ、もらってけろといって回ったら、与太者が来るかもしれない」「この開発は地域によってはもちろん、日本においても最大規模の開発事業である。(中略) したがって質的にも最高のものでとしなければならない。農漁業をも併進し、資源保護に徹し、公害を防ぎ、よい社会環境をつくるために、あらゆる科学技術をここに集中動員すべきである。そのための時間と費用を惜しむようではその結果は知れている。
人が住むに堪えない不幸の集積地になることはおちであろう」
と書いている。

すると、その時の〝与太者〟が、50年後の今では〝日本原燃〟になっているが、これは米内山さんの政治家としての〝先見の明〟であったろうか。

寺下元村長から竹内元知事への〝はなむけの言葉〟
一方、元六ヶ所村長の寺下さんは、竹内知事が亡くなった時、昭和61年11月9日のデーリー東北で「巨大開発はこの通り不成功におわり、はなむけの言葉もない。彼も逝ったかという気持ちだ。ただ、彼が呼び込もうとした開発の用地が今、核のゴミ捨て場になろうとしている。死に行くものはいいとして、残された住民のみじめさはどうなるか。」と、コメントを寄せた。

北村知事のアセス嫌い
昭和59年4月9日青森県議会全員協議会は、核燃施設受け入れの環境アセスメントをせずに、六ヶ所村への〝受諾〟をした。六ヶ所村の電事連に狙われた土地は、○地下水位が高い。○敷地の下に活断層がある。○米軍の射爆撃場が近くにある等と、最悪な立地条件が次々と露呈し、最近では大陸棚外縁断層の存在も明らかになった。

私たちはこの屈辱の日を「4・9 反核燃の日」として決して忘れてはいない。今年も37回目の反核集会が企画されている。

相手に憎しみを持たなくては〝運動〟にはなっても〝闘い〟にはならない
米内山さんは、「〝闘い〟には戦術が必要で、さらに武器が必要です。その武器も、道で拾ったもので、自分にあったものでなくては役立たない。ここがラジオ体操などの〝運動〟と違うところです。しかも、〝闘い〟は継続してこそ力になるのです。」と言われていた。

ところが、この「米内山訴訟」は平成元年、7月14日の最高裁で「支出が地方自治法138条の2(予算などの誠実な執行)に違反しないとした仙台高裁の判断は正当。知事の裁量権の範囲内で違法ではない」と、米内山さんの上告を棄却したことで終結した。

しかし、その1日前の7月13日に、「米内山訴訟」での浅石紘爾弁護士の強い指導により、今のこの前身の「核燃裁判」が提訴されていたのである!したがって、この我々の「核燃サイクル阻止1万人訴訟」には、その前に約10年間闘った「米内山訴訟」の意思が、確実にバトンタッチされたのである。

最晩年、米内山さんはご自分の闘いの歴史を振り返って、「ほう。一度もたじろいだことがないな。核燃の運動ともつながって、良いところで終わらさっている。」と満足気であった。

誰のために、何のために
昭和10年頃、小作争議の支援に津軽まで行って奔走していた米内山さんのことを、ときの常盤村の浅利崇氏は、「米内山君は『今は世に受け入れられなくても、人々のためになることは、やがて時代の変化とともに実現する日がきっと来る。おれたちは、その日を信じてがんばろう。農民の1人1人が俺たちのやっていることを信じてくれている。『明るい徳』の大義、『明徳』を信じて生きていこう』」と、仲間を励ましていたと紹介している。

かつて、世界の航海を結ぶと宣伝された原船「むつ」が、世界の趨勢でという無責任な言葉で廃止され忘れられてしまった。
この再処理工場も、世界を見渡せばすでに廃止される時期に来ていることは明確である。日本の原子力政策を変更させるためにも、無念の気持ちでこの世を去られた先人たちの憎しみ・恨みを引き継ぎながら、この「核燃裁判」の勝利に向かってもう一踏ん張りしたい。(2022年3月)

 

吉田 毅(十和田市)