私と青森
No.4 種市信雄さんの「六ヶ所からの手紙」
むつ小川原港・搬入阻止行動で一斗缶の太鼓をたたく種市さん(撮影:島田恵)
12000人が参加した六ヶ所集会、全国からの参加者のバスを見送る(1989年4月9日)(撮影:島田恵)
高レベル放射性廃棄物の最終処分地の文献調査に、北海道の寿都町(すっつちょう)と神恵内村(かもえないむら)が名乗りをあげています。この両地域の住民の皆さんに、「泊原発を再稼働させない・核ゴミを持ち込ませない北海道連絡会」という市民団体が、「明日への風通信」を作り、「お一人お一人への手紙です」として現地で配布しています。
その「明日への風通信」第二号に、六ヶ所の方から手紙を書いてほしいとの話があり、六ヶ所村泊(とまり)の種市信雄(たねいち のぶお)さんに相談し、聞き書きをしました。
今日まで、数え切れないくらい種市さんを訪ねています。でもなかなかじっくりと話す機会を作る事が出来ずにいたのです。今回はなんと3時間を超えて、これまでの六ヶ所村のことや種市さんの思いを聴くことできました。
1967年頃から六ヶ所村では正体不明の土地買い占めが起こる。その頃種市さんは「米内山義一郎」(よないやま ぎいちろう元衆議院議員)の学習会に興味をもち、泊から新納屋(しんなや:20キロぐらい)までを自転車で何度か通ったという武勇伝。そして1969年12月の六ヶ所村長選(寺下力三郎氏当選)に関わるようになったこと。1986年の泊漁協の大紛糾した総会のこと、今まで何回も関わった六ヶ所村長選挙のことなど、お互いに思い出しながら苦笑しながらとても良い時間を過ごせました。それらが「むつ小川原(おがわら)開発反対」、「核燃サイクル施設立地反対」の運動を今でも続けている「根っこ」になっていると思います。
種市さんは60年間に亘り、六ヶ所村での国策推進(開発・核燃サイクル施設立地)という大きな課題に取り組んできました。長年共に闘ってきた寺下さんや他の反対同盟の仲間の思いを大事にしながら、今でも自分の信念をまげることなく波乱の闘いを続けています。いつもどんな場面にも、ひっそり闘志を燃やし続ける名脇役の種市さんがいました。そんな種市さんだからこそ語ることができた「思い」だと感じます。
まだまだ、言いたいこと、伝えたいことは沢山あるでしょう。「青森県六ヶ所村からの手紙」は北海道だけでなく、私たち青森県民、そして全国に向けた種市さんの「手紙」です。
核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団 運営委員 伊藤和子
[1973〜1989年、青森県労上十三地方労働組合(上北郡・十和田・三沢)
書記としてむつ小川原開発〜核燃サイクル施設立地の反対運動に係わる]
種市さんと原告団メンバー(2022年10月撮影)
種市さんの手紙が載っている「明日への風通信」第二号はこちら
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